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日本漢方の歴史と現状


日本漢方の歴史

あくまでも私が感じたことだが、私たちが西洋医学を学ぶとき、医学史のウェイトはかなり低いようだ。医学史の講義がガイダンス的なもので終わってしまうのも、実際の臨床現場でその知識が発揮されることが少ないからなのだろう。最近の国家試験では、毎回1問は歴史の常識問題が出題されるようだが。
これに対し、東洋医学の勉強は、その歴史を知ることから始まる…と言っても過言ではない。現在使われている処方は、全て先人が試行錯誤のうえで作り上げてきたものであり、いわば古代中国から現代にわたり連綿と続く、東洋医学の歴史の結晶である。

そのようなわけで、本来ならば多くの漢書をひもとき、日本はもちろん大陸の歴史に通じることが基本なのだが、私たちは西洋医学の学習を優先せざるを得ないし、古文書の通読はまず無理だろう。従って、最低限の史実だけは押さえたい。 東洋医学全体の詳細な歴史解説は多くの類書にゆずり、ここでは、現在の日本漢方に直結する重要な点のみを紹介するにとどめる。
戦後の出来事に関しては次の項で詳しく述べ、各種の漢方医学の必須用語についても後の章で解説する。

中国では漢の時代(紀元前3世紀〜後2世紀)に、古くからの民間医療の体系化が始まった。これが文字通り漢方の起源である。
最初の医学書「黄帝内経」は、文字通り経典の形式で編纂された。ここでは
人体生理と環境との関係:素問
鍼灸の理論:霊柩
として解説されている。陰陽・五行・臓腑の概念(→漢方の生理学)が初めて示され、これらは現代まで中医学の基礎理論となっている。
最初の薬学書「神農本草経」の経典のスタイルである。神仙思想に基づき、365の薬品を上品・中品・下品(→漢方薬物学総論)に分類・解説している。
張仲景の著した「傷寒雑病論」は、薬物療法と診断学を結びつけたもので、後の宋の時代に「傷寒論」として改訂された。なお「黄帝内経」や「神農本草経」に「傷寒論」を加えたものが、古代中国の三大医学書とされる。

一方、日本においても、5〜6世紀頃には既に民間療法らしきものが存在していたが、これは7世紀以降に遣隋使・遣唐使によって伝えられた中国医学と融合する。
8世紀中頃に来日した鑑真和上の持ち込んだ薬物は、奈良の正倉院に保管され、現在でも十分に薬効がある事が確認されている。
984年に、丹波康頼は、中国の数十種の医学書を編集し日本初の医学書「医心方」を著した。この本は、単なる中国医学の「二番煎じ」ではなく、かなり康頼の自主性が見られるものとされる。
日本漢方は傷寒論を始祖として発達してきたため、この「医心方」の存在はとかく軽視されてきたが、最近この記述は大いに注目されている(東亜医学協会・矢数氏の指摘による)。

しかし、長い鎖国は、日本の医学にも大きな影響を与えた。中国とオランダとの交易は長崎・出島において続いたものの、中国医学が新たに入って来ることは少なくなった。そして、それまでの伝統医学は我が国の中で独自に発展して、江戸時代中期には「漢方」の名称で、ほぼ完全に中国医学から分離した。
漢方は、後に後世方派と古方派に分かれることとなる。後世方派は、15世紀末に田代三喜が持ち込んだ朱医学を、弟子の曲直瀬道三が発展させたもので、陰陽五行説を中心とする。一方、古方派は昔からの傷寒論を拠り所としている。それぞれ更に多くの分派が生まれるが、江戸時代後期から蘭学が広がるにつれ、漢方への関心は次第に失われつつあった。
1804年、古方派の華岡青州は、西洋医学的手法を取り入れつつ、チョウセンアサガオの麻酔作用を用い、世界初の乳癌手術を行った。これを最初の「西洋医学と漢方の融合」と考えるのは私だけだろうか。

明治時代の文明開化の頃は、極端に言えば、日本が多くの伝統を捨て去ろうとした時期とも言える。近代化政策はドイツを見本として押し進められ、この影響は軍隊のみならず医学にも及んだ。誰でも自由に医者の看板を掲げることが出来た時代は終わり、西洋医学のみによる医師免許制度が1879年に始まった。漢方は薬屋においてわずかに残ったものの、医療現場の一線から退いてしまい、戦後まで衰退の一途をたどることとなる。 

日本漢方の現状

中国から伝来し、日本で独自の発展を遂げたものには、漢方医学だけではなく、言語や宗教なども当然挙げられる。現在の我が国の言語や宗教が大陸のそれと大きく異なるのと同様に、日本漢方は現代中医学とは多くの面での相違がある。また、西洋医学中心の現代医療の中で漢方を用いるにあたり、いろいろな問題も出始めている。

戦後、東洋医学見直しの気運が高まり、1950年に日本東洋医学会が発足した。生薬成分の抽出である「煎じ薬」よりは扱いやすい、顆粒状の漢方エキス製剤が発明されたのもこの頃である。
1970年代以降、主な生薬成分について、構造・基本的活性などの研究が進んできている。1978年には43種のエキス製剤がようやく保険適用となり、現在は120種が薬価収載されている。
漢方処方の薬理作用の研究については1980年代に本格的に始まったものの、やはり発展途上の分野であり、厚生省では数年おきに漢方薬の効果について評価の見直しを行っている。近年、東洋医学独特の「証」の概念が西洋医学者に認められつつあることは、日本の医療の新たな可能性を指し示すものとなるだろう。

ここで、現代の中医学と日本漢方を比較してみる。
日本漢方の成立以後も、中国本土では診断と処方の発展が続いた。やはり近代において一時的な中医学の衰退はあったにせよ、文化大革命以降、中医学はほぼ完全に復権した。現在では医師・薬剤師ともに西医・東医が存在する。また、一部では中医学と西洋医学(特にフランス医学)の融合が試みられており、日本よりはむしろうまくいっているという報告もある。
基本的に、病状にあわせて必要な生薬を組み合わせ、処方を元から組み立てていくため、患者一人一人に特有の処方が出来上がるのが特徴である。
一方、現在の日本漢方は、傷寒論の考えが中心とされるものの、実際には知識・経験を積み重ねる機会が少ないためか、症状と処方の関連性を重視し、漢方エキス製剤として製造された処方から、治療に適切なものを選ぶ方法が普通である。証の調整は、漢方製剤に種々の生薬を増減する「(いい加減ではない)さじ加減」が理想なのだが、せいぜい保険の適用範囲内で合方をする程度が現実的だ。

我が国の漢方のベースは江戸時代以前の「古い知識」であるうえに、最近の西洋医学的見解を矛盾を残したまま取り込んでいるため、現代中医学と日本漢方の共通点はもはや薬物・用語の一部のみに過ぎない。日本国内での医学教育は西洋医学単独であって、また日本漢方を使いこなせる医師・医療関係者は多くなく、中医学に詳しい医師は非常に少ない。
東洋医学の主流は、「診療行為」から切り離された鍼・灸師および一部の研究熱心な薬剤師に受け継がれた。しかし、旧来の和漢薬家と、現代中医学を取り入れる薬店主、および西洋医学的見地に立つ薬剤師の間での思想的軋轢は激しい。 

なお、現在の保険審査は、薬剤が疾患に適応しているかどうかに依っているが、漢方的な疾患名は保険点数表には載っていないことが多く、また厚生省が認めていない疾患への処方の応用は保険が使えない。例えば、証によっては複視(動眼神経異常?)に葛根湯が効いたとしても、適用疾患(感冒)ではないから診療報酬からは削られる。よって現状では、使用した漢方エキス製剤に定義されている病名を(半ば偽りつつ?)申請しなければ患者負担が重たくなる。

保険に限らず、相変わらず日本漢方への風当たりは強い感がある。
診断技術の進歩で、証が判別できないような病気――例えば自覚症状のない悪性腫瘍など――の発見(発明?)率が上昇している。このような疾患に対しての漢方的診断の困難さから、漢方を無能呼ばわりをする者が出現してきた。また、漢方薬と霊感療法とを結びつけて非難したり、更には漢方薬の殆どをプラセボ(偽薬)に過ぎないと断言する専門家も現れている。
反対に、多くの国民の現代医療に対する不信は、漢方や民間療法への過剰な期待に結びつき、ひいては間違った処方や、適応外の疾患への実験的な応用を流行させた。例えば、小柴胡湯=慢性肝炎の特効薬…という短絡的思考に基づく投与が、間質性肺炎の発生をもたらした事件は有名であり、この他にも、伝統から逸脱し、生薬研究の最新情報をないがしろにして処方を行ったために発生した副作用はかなり存在する。
その後、インターフェロンαとの併用が間質性肺炎の発生リスクを高めることが報告されたが、柴胡剤=拘束性肺疾患の原因…という図式が医療者の頭にインプットされ、すっかり悪者扱いされるようになってしまった。このことが漢方批判を激しくした感は否めない。西洋医学と漢方医学の溝はいまだ深い。

いくらかの救いとして、富山医科薬科大学や北里研究所などにおける、漢方薬の盛んな研究が挙げられる。また伝統を重視しつつも、漢方の新たな可能性について積極的に学ぼうとしている者も増えてきている。講座新設も各地で動きつつある。


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Last Updated:2018/06/10
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